もっと、音がここにあるよ、という感じで弾いてみて、
と、たびたび言われる。



ということは、
私の音は、ここにないのだな、と理解する。



音がここにあるとは?


 
これを言われる時は、
たいてい指さばきに夢中になって
複雑な譜面を、インテンポでいけた!と
自己満で、ドヤっている時😅😅😅



ということは、
もっとゆっくりと、丁寧に弾くのか?
と、自分なりに、音がここにあるの解釈を
デフォルメして弾いてみたら、さらに違う。




デフォルメしたことで、
音楽のフローが消えてしまい、
先生のご指摘に対する、対処どころか、
別問題が追加で発生してしまう。



こんな現象が度々おきます。



ピアノレッスンの
言葉って、難しい。



何度か、トライ&エラー繰り返して
なんとなくわかってきたのは、
音色、呼吸、リズム、フレーズ、フロー、
全部の微妙なコントロールが
総合的に合わさらないと、
「音がここにある」は実現できない。




「音がここにある」の
頭の中の意識と、体のコントロールが
まれに上手くいって、
先生に褒められたとき、
ああ、これだったのかなと思った。




これ、実は、大昔に、
ツェルニーを公文式的に
こなしていった弊害ではないかと、思っている。



私の場合は、ツェルニーXX番をクリアするというのが、
ゲーミフィケーションになってしまい、
指さばきが目的になってしまった。


指さばきって、
ちゃんと弾けているのではなく、
音を譜面どおりに鳴らすだけのことを言っています。



こういう「音がここにあるよ」の習慣づけを
子供の頃にインストールしてもらっていれば、
今こんなに、悩まないのだろうなと思いました。


ただ、子供の頃に、いい先生についたとして、
それをインストールしてもらえる実践態度は持ち合わせていただろうか?
というと、答えはNoだったように思う。


子供の頃だと、
意味わかんな〜い、先生厳し〜、ピアノ嫌い〜、と
熱心に教えてくれる先生の好意が
伝わらない、理解できかっただろう。




音がここにあるよ、は
音楽がここにあるよ、で
音楽とは?とそれを細分化すると、
さらなる要素があって、
ミクロな視点だけではなく、マクロな視点も必要で、
曲全体では、小説のように仕上げる。



壮大な話になってきました。
音楽探求は、果てしない。
どこまで続くのでしょうか。



ちょっと思ったのは、
ピアノって写真に似ているかなと。



まあ、いいんじゃないと、思っていた写真も、
だんだん目が肥えてくると
もっと画素数の細かいものがみたくなる。



拡大すると、もっともっと、細部を見てみたい。
もっと、知りたいと。



わかってくると、
あれ、あの画像は質が悪いなと。
思ったりする。



わかってこないと、
それで満足してしまう。


それで十分、
という考え方もあるんだけど、
知ってしまうと、なんですと〜〜!!((((;゚Д゚)))))))
とショックを受ける。



知ってしまうと、
まだ先があるのか?と
やめられなくなってしまう。



知らなかったら、それで幸せなのかも、とも思う。



そこまで求めている人って
全人口からしたら、少数なんだろうな。


でも少数派でも、違いがわかる人はいます!




椎名林檎さんの「人生は夢だらけ」いい歌です。







にほんブログ村 クラシックブログ やり直しピアノへ


にほんブログ村 音楽ブログ 大人の音楽活動へ